〈JFA100周年 特別インタビュー〉JFA 田嶋幸三会長 ~サッカーが未来へつなぐもの~
1921年に大日本蹴球協会として始まった日本サッカー協会(JFA)は、2021年9月10日に記念すべき100周年を迎えた。
これまでの歴史を振り返りながら、JFA田嶋幸三会長とともに日本サッカーの未来を展望していこう。
Text:Rie Tamura
Photograph:Shuichi Utsumi
タイトル写真:JFA、AP/アフロ
日本サッカーを変えた
Jリーグ開幕とW杯開催
世界におけるサッカーの競技人口は、約2億5千万人といわれている。FIFAワールドカップ(W杯)をはじめとする国際大会や各国のプロリーグに人々は熱狂し、キッズ、シニア、女子など年齢や性別、障がいを問わず誰もがプレーして楽しめる裾野の広さがある。それがサッカーというスポーツだ。
「ボールさえあればできる。そして、ルールが簡単である。これらが、世界中にサッカーが広まった大きな理由だと思っています」
そう語るのは、日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長だ。コロナ禍という未曽有の危機下に100周年を迎えるにあたり、田嶋会長は「未来に対する責任」を強く感じているという。
「新型コロナウイルスの影響で苦しんでいるサッカー関係者を支援し、それを継続して次の100年につなげなければいけない。そう決意し、2020年5月、経営危機に瀕する街クラブやスクールに対し、5億円の融資をいち早く始めました。サッカーを楽しむための環境こそが、日本サッカー界の最も重要な財産のひとつだからです」
今でこそ、サッカー日本代表はW杯の常連であり、女子においては優勝まで経験している。しかし、そこに至るまでには幾多の試練と挫折があり、アジアの大会で連敗して「出ると負け」協会と呼ばれた時代まであったという。
「1964年の東京五輪に向けて、なんとか強化しなければということで、当時の西ドイツから初の外国人コーチ、デットマール・クラマー氏を招きました」
「その結果、ベスト8まで躍進し、68年のメキシコシティ五輪では銅メダル獲得という、日本サッカー史に金字塔を打ちたてました。ただその後、70、80年代は『出ると負け』に逆戻りし、サッカー人気も低迷していきました」
そんななか、ターニングポイントとなる出来事が起こる。93年のJリーグ開幕と、02年の日韓W杯開催だ。
「勝てない時代を打破するためにプロ化を議論し、思い切ってJリーグ開幕に踏み切ったところ、大いに盛りあがったのです。クラブに企業名をつけない、地域に密着するといった、ヨーロッパでは当たり前のことをしっかり根づかせたのが良かったのでしょう」
「さらに自国でのW杯開催により、『サッカーは文化なんだ。地域に根差しているんだ。国を挙げての行事なんだ』という意識が日本中に浸透したように思います。サッカーが文化として定着するきっかけとなりました」
サッカーファミリー倍増と
W杯優勝を叶えるために
05年元日、当時の川淵三郎会長は「JFA 2005年宣言」を発表した。その中で掲げた長期目標が「JFAの約束2050」である。
「サッカーを愛する仲間=サッカーファミリーが1千万人になる」
「W杯を日本で開催し、優勝する」
50年までにこのふたつの目標を達成するというものだ。
「現在、日本のサッカーファミリーは500万人以上、FIFA世界ランキングは28位(※)。でも、W杯優勝を本気で見据えています。そのための布石として、ナショナルトレーニングセンターを次々に開設しています。昨年4月には、千葉・幕張に高円宮記念JFA夢フィールドという日本代表のトレーニングや指導者養成などの拠点となる施設もできました」
「また、Jリーグのクラブ数は開幕当初の10から57まで拡大し、日本の選手たちがJリーグを経由して世界へ羽ばたいています。これらもすべて布石です。本気で信じて取り組み、継続し、後輩に伝えていくことが、私の会長としての使命なのです」
さらなる改革のためには、あらゆる投資が不可欠だと田嶋会長は語る。
「突然、日本代表が強くなるわけではありません。キッズ、シニア、女子などのグラスルーツ(草の根)へ投資し、サポート体制を強化していく」
「そして、皆が一生サッカーを楽しめる環境を作ります。デジタル化にも力を入れ、JFA登録メンバーと相互に情報交換ができるように進めていくつもりです」
日本サッカーは、世界一へのロードマップを着実に歩んでいる。
※掲載の情報は2021年8月1日現在のものとなります。